昭和48年02月08日 朝の御理解



 御神訓 一、「信心は本心の玉を磨くものぞや。」

 大体どげんしてから、心ちゃ研くもんですかと。と、言う様な人があります。所謂研きようが分からん。信心は本心の玉を研くものと分からせて貰うという事が、大改りに通じる事です。信心は日々の改りが第一と仰る。その改りと言う事は、どう言う事かと言うと、わが心が神に向かうと言う事だ。おかげとか御利益とかと言う事じゃないんだ。ですからそれを又の言葉で言うとここになるわけです。
 信心とは本心の玉を研くものだと。玉の光に潤うて来るというか、現われて来るのが、これは金光教で言うおかげなんです。本心の玉が研かれて行けば行く程に、いうなら豊かなおかげと言う事が言えるわけです。昨日の朝の御祈念の後に、福岡の秋永先生が、お礼に出て来ておりました。五日と六日が兄弟三人合同の呉服の展示会を、高宮ホテルですか、あちらでまぁ恒例になってます。そういう催しをやっておりました。
 皆さんも御承知であったと思いますけれども、十日くらい前からあちらのお爺ちゃんが、何回も危篤状態に入られるようにひどかった。もう歳九十四才ですか。中々元気なお爺ちゃんでしたが。けれどもお取次を頂き頂き、おかげを頂いておかげ頂いてから、また元気になりましたと言うくらいに、おかげ頂いておる。血色もよくなりお食事もいけるようになり、お風呂なんかにも入らせて貰う。
 先日なんか麻生さんが、お見舞に行きましたらもうとっても、お爺ちゃんあなたまた昔のごと元気になったねと言う位に、冗談の一つも言う位に、おかげ頂いてありますと言うてから、お爺ちゃんの事についてお届けしよりました位でした。それでもそんなふうで良かったり悪かったりですから、展示会が中にあるもんですからね。お繰り合わせを願わして頂いておりましたら、もうその頃は大変元気で最後に娘さんが来とります。
 その人が二三日あちらにお手伝いに行って、その間はお爺ちゃんを見てくれておる。おかげで気嫌ようおかげ頂いておる。それでおかげで今度は展示会も、大変いつもよりも、大変兄弟三人共おかげを頂いて、まあだハッキリ数字は出ておりませんけれども、とにかくおかげ頂いておりますからと言うて、昨日取りあえずお礼に出て来ると同時にです。お爺ちゃんが、本当にもうおかげ頂いておるという事を聞かせて頂いて。
 私は実は十日前にお国替えのこと項いておりましたですから、そのお届けがあるたびに恐れ入るなぁ、神様ちゃ本当恐れ入るなぁと、私は秋永先生がお届けするたあんべんに、それを思い又言うた事でした。もう何というか生まれるにしても、死ぬるにしてもです。神様のおかげを頂いてなんです。しかもそのおかげであると言う事をです、ハッキリ感じさせて頂けるほどしのお繰り合わせの中になのですから、私が恐れ入ってしまうなぁとこういう訳です。
 今日私は本当に信心とは日々がです、恐れ入るなぁという生活だと、今日は思わせて頂いた途端でした。大きな御神殿から「おいさみ」がありましたでしょう。私はその事を思った途端でした。信心とはね本当に日々が恐れ入った生活、これはよい事悪い事です。例えばお気づけを頂きましても、もう神様には恐れ入るという事。おかげを受ける素晴らしいタイミングという事においてもです、もう恐れ入る。
 その恐れ入った生活が信心生活です。ですからどのような場合にあっても、その神様の働きを自分の心に、キャッチ出来れる心の伏態というものが必要なのです。そこにおかげおかげと、所謂おかげを実感しながらの日々が頂けれるわけなんです。私は改めてお爺ちゃんの信心の、いわば偉大であった事をね、これは私は改めて感じさせて頂きました。咋夜からその事を、昨日お届けがありました時に、すぐお届けさせて貰いましたら、頂いたのがこう言う事を頂いた。
 「和楽」と言う事を頂いた。すぐ書かせて貰った和の楽と。ははぁ秋永のお爺ちゃんこそ、和楽の人だっただろうなぁという事でございます。皆さんご承知の方もありましょううけれども。以前は共励会にお爺ちゃん、必ずお婆ちゃんと一諸に、山本やら片ノ瀬あたりまでどこへでも参りよりましたですもんね。時に私は聞かせて頂いた話なんですけれども。大体お爺ちゃんは生粋の江戸っ子なんですね、東京の人なんです。
 それが特別なあぁいうそれこそ、昭和の左甚五郎と言われるくらいに、指し物にかけては抜群の腕を持っておられました。ですからそういう事で、九州にみえられてここん近所の方が、ここ辺の金満家という様な家の指し物は、殆ど秋永のお爺ちゃんがしとると言われるくらいですね。ように仕事もよい仕事を、沢山残しておる人ですけれども。そんなわけでこちらに、秋永家に養子にみえられて、そして演子さんと秋永先生が出来られて、東京に帰られた。ある事情で帰って久しく音信不通であった。
 そん時にそのお婆ちゃんが、この話を何時もしておられましたように、本当に二人の子供を抱えて、路頭に迷う様な所を通らせて貰うて、これは死んだ方がましと言うてです、川に身投げでもしようと言う様な所まで行った時に、近所に篤信の方がおって、金光様の御信心を聞かせて貰い、お導きを頂いて、三井教会の初代、荒巻弓次郎先生のお取次を頂いたというのが信心の始まりなんです。
 ご承知の様に非常に気の烈しいお婆ちゃんでしたからね。信心に打ち向かわれたら、実に熱烈な信心が出来られた。歳を取られてもやっぱり、あんな熱烈な信心をなさいましたがね。そういう信心にならせて頂く事によって、新な信心の有難さが分かり、道が開けてきて、あの東京大震災なんです。それで東京大震災に合われたお爺ちゃんが、もうそれこそ裸一貫のような状態で、また子供家内の待つ九州に帰ってみえられたのが、所謂大正十三年でしたかね大震災は。
 私は咋日からそれをずっと、指折り数えて見たらね、四十九年になるようです。五十年という長い月なんです。その月をその五十年という年月日をです。お爺ちゃんがどのような生き方をされたかと言う事をです。私は昨日改めて成程神様が、和楽と言う事を下さった思いが分かりました。あちらの子供達はみんな熱心によう信心ができる。特別な信心の感覚というか、所謂信心感覚が皆んな兄弟揃って素晴らしいと。
 子供達の事ばっかり思いよりましたけれども、成程こういう元があってからの事だと言う事を、改めて昨日気づかせて頂いたですね。そして山本か何処かの共励会の時でした。お爺ちゃんが、自分の体験発表をされましたが。もう本当にあの大震災があったおかげで、私の今日があるのであって帰らせて頂いです。私が心に一心発起した事、それは決してこの家内に、こんなに苦労かけたんだから、もう家内がどんなに喧しゅう言うても、いうならそれに対して口返事をするまい。
 腹を立てまいと言う事だったと言う事です。それはお婆ちゃんは、あんな様に口やかましい方でしたけれども、絶対それこそいつもニコやかに受けて行くという事に決められた。腹を立てないしかもね、それを五十年間続けられたという所が、とても私は改めて素晴らしいと思いました。ですからそれは家内と言う事だけではない。そんなら秋永先生でも、文男さんどんでもです、お爺ちゃんに怒られた事がないという様に、もうとにかく子供達に対してでも、不平がなか不足がない、腹を立てない。
 家族だけではない今度は人間関係の上においてもです、だから秋永のお爺ちゃんに限って、もう人間関係での苦労というものはまず、五十年間なかったろうと思われるほどしだ。是は皆さんも、ほんに知っておられる通りなんですよ。それを私は改めてこの和楽と言う事をです、和楽の徳というかね、本当に自分自身も和の楽と言う事をです、気づかれて成程、長男がここの信徒会長。
 文男さん二番目がここでは、一番権威を持っている菊栄会の副会長。そしてあぁいう共励ここの機関の所には、何処へでも必ず出席して、信心指導に当たらせて頂くというほどしの信心。嘉朗さんはここの青年会長として、あぁいう手篤い信心と同時に御用頂いておる。成程こういう素晴らしいですね、元があっての事であるなと言う事です。子供達がそういう信心になっていくと言う事は。私はお爺ちゃんの、こういう素晴らしい信心をです。ただ秋永家の人達は、中々信心の感覚が鋭いセンスがある信心の。
 そういう見方そういうものが生まれる元がです、両親の信心にあった。取分お爺ちゃんが、五十年間腹を立てない、不足不満を言わないといふ生活をしておられたと言う事です。しかもそれが信心にならせて頂かれてから、金光様を唱えながらのそれであった所に、愈々光を放つほどしの事になってきた。兄弟三人の商売の上にも、あの様なおかげを頂きしかも家族中の者が、嫁後達もみんな熱心に家族をあげて親戚あげて。
 孫の徹君は昨年学院を卒業すると言う程しのおかげ一家になったという、その元がですお爺ちゃんお婆ちゃん、特にお爺ちゃんのこの様な、和楽の徳を受けられる事の為に、それが精進とも思われない程しにです。もうこの何と言うですか、腹を立てないとか不足を言わないという事が、身についてしもうておられたという感じだったですね、皆さんご承知の通りなんです。
 私はあらためてですね、成程最近ここで言われる大改り、わが心が神に向かうそういう理屈とか言葉ではなくて、もうすでにです金輪際うちの家内に対してだけは、不平も言わん不足も言わん、例え喧しゅう言うても口返答でもするまいと決心された。一心発起された。それが四十九年間続けられておると言う所にです、成程和楽の徳になる筈だと思いますね。本心の玉を研くと言う事は、私はそう言う事だと思うのです。初めの間はです、やっぱぐうぐういうて堪えなさった時代もあったかも知れません。
 取分けお婆ちゃんは、あんな喧しいお方でしたから。けれどもこうと決めた以上はです、それを貫かれたと言う事なんです。私は本当にお爺ちゃんの、そういう生き方というものがそのまま、お道の信心させて頂く者の、そのまま是は生き手本だと思います。成程子供達が揃いも揃うてああいう熱心な信心になって行く筈だと言う事をです、改めて思わせて貰う。子供達が信心するのですから。
 その中にある家族中の者が信心するのであるから、その中にあるお爺ちゃんが、幸せであった事は極楽であった事は勿論であります。本心の玉を研くちゃどげなこっじゃろうかと。成程様々な問題を通して、それを研く材料にすると言う事でしょうけれどもです。お爺ちゃんの場合のようにです、不足は言わん不平は言わん、腹は立てんという、そういう修行がです。何時の頃からは分からんけれどもです。お道の信心を愈々熱心になさる様になられてから、尚更であったろうと思うけれどもです。
 それが辛抱しないで済むもの、何時もニコやかで豊かな心でです。有難い勿体ないの、所謂五十年間という長い年月を暮らされた。所謂和楽の中に送られた。それが子供達一人ひとりが、あのような繁盛のおかげを頂く元、子供達孫達までが、挙げてお道の信心にならせて頂けれる元というものがです。成程こういう所にあったんだなというふうに、私は、改めて思わせて頂きました。お互いそこに信心をさせて頂くなら、何をか私は徹していかなければならないと思うです。
 最近ここで言われておる、所謂大改りと言う事。傍を楽させると言う事、そういう信心がです、何にも言われないお爺ちゃんの信心、いうならば生活の姿勢の中に備わっておったという事です。もうちょっと驚きですね。それが始めはこの家内に苦労かけたから、その償いにでもこの家内が、どんなに例えば無理を言うても、それに対して口返事だんするまい、腹だん立てまいぞ、不平不足だん言うまいぞと心に決められた事。
 是が大改りなんです。自分がその事が神に向かうという様な事とは、ご自身勿論信心が本人にはないのですから、分からなかったでしょうけれども。それが段々信心になられる事になってです、愈々いわば昨日私がここで頂きます、和楽という徳になった。その徳が現在秋永一家の繁栄、子供達の一人ひとりの上に、あんな手篤い信心が出来る程しの元というものを作られた。子供だけではない孫達までが同じく信心の道にいそしませて頂けるという、遇然じゃない。
 成程ああなるべくしてなっておるんだ。その元を辿るとお爺ちゃんの一心発起、腹は立てんぞ不足は言わんぞと言う、そこからしかもそれが四十九年間続けられたという所が、もう只々有難い只々驚き。成程ああいう良い信心が、家族挙げて出来る筈だという、そういう元をお爺ちゃんが作られた。お国替えの電話があったのが、もう九時半位だったでしょうか。それで丁度北野の堤さんがお見えになっとりましたから、あちらにお願いして、若先生と末永先生が遷霊のために、昨日参りました。
 今朝からもう帰って来とるわけですから、色々話し合いが出来ておるのですから、お葬式の日取りなんかは、告別式ですね、勿論ここでなす事で御座いましょう。けれどもおそらく明日じゃろうと思うんです。どうですか明日だそうですけれども、本当にひとつお爺ちゃんのご信心にね、あやからせて頂いて、本気での一心発起の、素晴らしい事に対して、一心発起させて貰うて、おかげを頂きたいもんだと思います。
   どうぞ。